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【旅と日本の器④】沖縄やちむんをめぐる旅〜前編・那覇市立壺屋焼物博物館で歴史を知る〜

適度な重さがあり、土ものならではの素朴さと味がある。大胆に描かれた図柄や形は、おおらかな沖縄の気候や風土、人柄を象徴しているようで、手にした時に人の温もりも感じられる。そんな印象をもつ沖縄の器「やちむん」。日本を代表する民藝品のひとつです。

はじめに

「やちむん」は使ってこそ、より一層その良さが分かります。一見合わせにくいかな? と思う料理も盛り付ければ意外としっくり馴染んでしまう。カレーやパスタ、チャーハン、野菜炒め、丼…。必然と食卓にのぼる回数も増えるので愛用品に昇格し、いつの間にか「やちむん」の虜になってしまった! なんていう人も多いのでは? 和洋中問わず日本人の食生活と相性がよく、日常使いできる「やちむん」の魅力を全3回に分けてレポートします。


第1回目は、那覇市の中心街にある壺屋をフォーカスして「やちむんの歴史」をご紹介します。国際通りから徒歩約10分にある『壺屋やちむん通り』には、沖縄のやちむんを販売するショップがずらり約40店舗。沖縄の観光名所のひとつで、土産物散策としても多くの人が訪れます。通りの入口には『那覇市立壺屋焼物博物館』が。博物館の学芸員である比嘉さんにお話しを伺いながら、沖縄の焼物の歴史を紐解きましょう。


1.交易の中継点として様々な焼物が移入
2.「壺屋」の起源
3.荒焼と上焼
4.琉球王国から沖縄県に
5.民芸運動の影響
6.戦後は壺屋を中心に都市化

1.交易の中継点として様々な焼物が移入
沖縄の器やちむんの始まりは、約6600年前(日本の縄文時代の頃)。粘土で成形したものを薪で焼いた土器の使用からです。その後12世紀頃になると、東アジアと交易がスタート。15世紀前半に成立した琉球王国は、中国、日本、朝鮮、タイ、ベトナムなど様々な地域の交易中継点として活躍。日本でも珍しい器や中国の皇族階級しか使用できない器などが発掘されており、実に多種多様な焼き物が交易を通じて琉球王国に流入したことが分かります。こうした移入の焼物が土器とともに生活の場で使われるようになり、国も豊かになっていきます。
14世紀後半から15世紀前半頃になって瓦づくりが始まります。朝鮮半島の技術で作った高麗系瓦や日本からの技術で作った大和系瓦。その後定着したのは中国・明の技術で、現在の赤瓦につながる明朝系の瓦だそう。瓦だけみても、3国からの技術を導入している点で、他国の様々な技術を吸収しながら、焼物の歴史が進んでいったことが分かります。

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2.「壺屋」の起源
交易による陶磁器輸入が下火になる16世紀後半から沖縄本島に窯場が作られます。1616年に当時従属関係であった薩摩から朝鮮人陶工を招聘してからは、壺・甕類、お碗やとっくりなど様々な器が作られるように。その後、朝鮮人陶工のもたらした技術と交易の恩恵から得た様々な地域の技術が融合して、沖縄の焼物の基礎が築かれていくのです。

1682年には、王国内に散らばっていた知花窯、宝口窯、湧田窯の3つの窯場を牧志村の南(現在の那覇市壺屋)に王府が統合。これが今でいう、やちむんのルーツ、壺屋焼の始まりです。名もなき場所に窯場をつくり、王府政策のもと大量生産が開始。やがてその地を人々が「壺屋」と呼ぶようになり、正式に「壺屋村」として認められ、それが現在の地名として残りました。

「日本の各地域にある地方窯だと、形やデザインが限定的になりがちですが、この壺屋は、琉球王国の中心的窯場だったことから琉球中で必要とされる器を全て作っていました。そのため、形もデザインも様々で、規模は小さいながら、広がりは国を代表する一大産地。壺屋焼が多種多様なのは、こうした事情と交易から得た技術、他国を見て勉強する環境があったからです。色々な技術を吸収して自分たちに必要なものをつくる柔軟なスタイルは、今の沖縄の風土や県民性にも表れている気がします。」と比嘉さんは語ります。
Q)なぜ、牧志村の南に窯場を統合したの?
A)以下の4つの理由が考えらえています。
①王の住む首里城が近かった(王府が管理する窯場のため)
②壺・甕をつくるための粘土がとれた
③丘のある地形だったため、斜面を利用して登り窯をつくるのに適していた。
④近く(現在の牧志駅周辺)に川が流れていて、焼物に必要な薪や粘土を運ぶなどの物資運搬がしやすかった

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3.荒焼と上焼
壺屋焼を代表する2種類がこちら。荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)です。作り方の違いは右図を参考に。荒焼は水や味噌、食料などを貯蔵するために使用する壺・甕類が主流。土の色味がそのままに出ているのが特徴です。上焼は、お碗や鉢、皿などの日用雑器から酒器や花瓶などがあり、釉薬をかけて焼き上げるので、つるっとした見た目で色も様々です。



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4.琉球王国から沖縄県に
その後、大きな変化が訪れたのは明治に入った廃藩置県の頃。琉球王国が沖縄県に代わるタイミングです。国がなくなったため、窯の運営が民間となり、日本との結びつきも強くなっていきます。窯のなかに棚を作り、重ねて一度に大量に焼く重ね焼きの技術もこの時期に。市場を意識したデザインが増え、県外の商人が購入したくなるような、当時流行したエキゾチックな図柄、エジプト文様や象、ピラミッドなどが描かれるなど、バラエティに富んだ焼物が作られるようになっていきます。

また、荒焼は本土に輸出する泡盛の容器として大量生産されましたが(日露戦争時に軍隊用として移出)、それまで家庭の食器として使用されていた上焼は、本土から移入された安くて丈夫な陶磁器製品に取って変わられ、市場が衰退していくことになります。しかし、逆に1950〜60年代には、水道の利用や焼物以外の容器普及により荒焼の壺・甕類が売れなくなるという市場の逆転が起こりました。

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5.民芸運動の影響
大正から昭和にかけて起こった民藝運動の流れから、柳宗悦(やなぎむねよし)をはじめとした日本民藝協会のメンバーが壺屋を調査で度々訪れるようになります。本土では失われかけている伝統的な作陶技術での生産や陶工の生活が壺屋に残っていることから高い評価を受け、全国的な知名度を得ていくことになります。

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6.戦後は壺屋を中心に都市化
戦時中は日本軍の命で軍隊用の食器や陶器製の武器などを作らされるなどして、陶工たちも戦争に巻き込まれていきます。終戦後は米軍に捕らえられ収容所生活に。ところが日用雑器の不足から、各収容所から103人の陶工が集められ壺屋への帰還を許されます。つまり、一般人の中でいち早く那覇に戻ってきたのが、壺屋の職人たちでした。生産した焼物は米軍に渡り、その後民間人に配給。米軍監視のもと、そうした生産がしばらく続き、やがて占領から開放されることとなるのです。

「都市のど真ん中に焼物の街があるのは、実は珍しいことです。壺屋はもともと田舎の村でした。ところが民間人の開放とともに、すでに村が復活していた陶工の暮らす壺屋に人が集いだし、壺屋を中心に街が活気を帯びていきました。区役所や小学校など主要な施設が壺屋周辺に建設され、新しく商売を始める人も壺屋に移り住み…と、壺屋を中心に平和通りなどのアーケード街、国際通りと広がりをみせていったことで、急激に都市化していったんです」と比嘉さん。

壺屋の都市化とともに、一方で焼物生産による公害問題が起こります。それは、登り窯で焼く際に出る煙が人々の暮らしに影響を及ぼすのでは、と公害視された問題。そこで中心市街地となった壺屋では1974年に登り窯が使用停止、登り窯でやちむんをつくりたい人は読谷などに移り、そうでない人はガス窯などを使用してこの地に残りました。そういった経緯から壺屋での生産は分散され、また、読谷に移り住んだ陶工たちは新たな地でイチから登り窯を築き、それが現在沖縄の観光名所のひとつ「やちむんの里」につながるのです。
「現在の壺屋は“販売店”というイメージを持たれがちですが、この壺屋にも工房が10以上ありますし、壺屋、読谷以外の別の場所にもあります。陶工にも様々なパターンがあって、代々跡を継ぐパターンがあれば、単独で大学などで陶芸を学び、アート作品的に自由につくる人もいます。他県から移り住んで作陶する方も多いです。沖縄は深刻な人手不足ではないですが、技術を継承していく点で、柔軟に若手・作り手を受け入れている印象があります。また現在の器ブームでやちむんも人気が急上昇していますが、これが“やちむん”と皆さまに周知いただいているデザインの中には、何百年も前から受け継がれてきたというより、ここ数十年で出てきた新しいものもあります。ニーズに応じて変化してきた過去の歴史を考慮すると、今後独自路線を築くのか、時代の流れにのって変化していくのか、沖縄やちむんの今後が気になりますね」と最後にコメントいただきました。

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■那覇市壺屋焼物博物館
モノレール牧志駅より徒歩10分、「壺屋やちむん通り」入口にある焼物博物館。沖縄の焼物に関する歴史・基礎知識を学ぶことができる常設展示室(1F・2F)や映像シアターがあり、企画展や貸しギャラリーを催す企画展示室も。エントランス付近の情報コーナーには、器関連の書籍・資料の他、地域の文化や観光情報も交えたガイドブックなども自由に閲覧ができます。また、5月から翌年2月の第3日曜10時から約1時間、学芸員によるテーマに合わせた常設展示の解説案内があるので、その日時に訪れるのもおすすめです。

※沖縄県那覇市壺屋1-9-32/098-862-3761
※一般:常設観覧料 大人350円(大学生以下は無料)
※開館時間10:00〜18:00(入館は17:30まで)
※休館日 月曜日・年末年始(12/28〜1/4)

■壺屋やちむん通り
国際通りからも程近い「壺屋やちむん通り」は、330年以上の伝統が息づく焼物の街を象徴する場所。広い一本道の両脇にやちむんを取り扱う販売店や窯元、飲食できるカフェなどが点在し、その数約40店舗。店舗ごとに取り扱う器も少しずつ異なるので、自分のお気に入りを見つけに散策してみてはいかがでしょう。


田中恵子(ライター/フードコーディネーター)
編集プロダクション、WEB制作会社を経てフリーランスに。フード、ファッション、介護などの媒体で、取材・執筆・編集を担当。食べることが大好きで、フード系の取材は多い月で30件にも及ぶ。最近では横浜の農を普及する「はまふぅどコンシェルジュ」を取得。月刊誌「カフェ&レストラン」(旭屋出版社)では、野菜がおいしいお店を紹介する『VegiLove』を連載中。
http://www.asahiya-jp.com/cafe_res/

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